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	<title>red-ocean.org &#187; 詩</title>
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		<title>睡眠のように、あるいは鼓動する心臓の小休止のように　～小池昌代「接触」を読みながら～</title>
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		<pubDate>Tue, 21 Mar 2006 14:52:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>redtail</dc:creator>
				<category><![CDATA[詩]]></category>

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		<description><![CDATA[せっかくの休日だというのに、太陽が傾き始めるころまで、家で何をするでもなく過ごしてしまった。その状態を一言で表せ ば、憂鬱というやつだろう。そういえば最近は、電車の中吊りや書店に平積みされた本などで「鬱の克服」などという [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="newsTextBox">
<p class="news">せっかくの休日だというのに、太陽が傾き始めるころまで、家で何をするでもなく過ごしてしまった。その状態を一言で表せ ば、憂鬱というやつだろう。そういえば最近は、電車の中吊りや書店に平積みされた本などで「鬱の克服」などという言葉をよく目にする。診療内科にいって、 無気力で何もやる気がせず気分が重いといったようなことを医師に話せば、十中八九、「うつ病」と診断され、抗鬱剤を処方されてしまいそうでもある。なんだ か、ただの憂鬱であっても、ちょっとその程度が進むと、“鬱”だと言われてしまうきらいがある気がして、そのとき“憂”はどこへいってしまうかと考えると 妙に気になりだした。<span id="more-149"></span><br />
“憂鬱”ならば、鬱の理由が語義的なレベルにおいては、まだ一応明らかにされている。それは“憂い”ゆえの鬱なの だ。たとえその“憂い”の理由を、自分ではうまく意識化（もしくは対象化）できないとしても、語義的に説明されているという意味で、わずかばかりの安心感 がある。<br />
けれども“憂”がなくなり“鬱”――それはなんと深刻で込み入った感じの文字だろう――だけが存在感を持つようになると、もはや“鬱”の理由は語義的なレベルにおいてすらわからなくなり、ましてや自分で“鬱”の理由を探ることなど、全くもってできなくなってしまいそうだ。</p>
<p>ところでさすがに夜まで家に居続けるのもよくない気がして、特に行き先もないまま電車に乗ることにした。そして車内で、たまたま持っていた『現代詩手帖』(1)を開くと、まさに私のそのときの気分を代弁してくれるような詩に巡りあうことができた。</p>
<p>わたしに速度はない<br />
わたしはただ、席に座って<br />
次の駅へとはこばれていくだけだ<br />
けれど、こころは<br />
一番素早く<br />
どんなところへも飛んで行こうとする<br />
電車に追いついた夕日のように<br />
今度は夕日を追い越そうとして<br />
電車とわたしと夕日とこころ<br />
ばらばらな速度をもつものたちが<br />
午後６時<br />
同じ電車に運ばれながら<br />
一瞬に、重なりあい<br />
静かに引き起こす「時」の交通事故<br />
被害者のいない事故現場<br />
そこには時が<br />
まるで「死」のように止まっていた<br />
（小池昌代「接触」より一部抜粋）</p>
<p>地 平線に向かってじりじりと高度を下げていく太陽、その下を走る電車、電車の座席で静止している“わたし”。そして、“わたし”の身体から離れ、（もしかし たら虹色に輝く大洋の上空あたりを）素早く飛んでいくこころ。ばらばらな速度で動いていく四つの事象が、一瞬重なり合い、各々の速度が相殺されて「時」が 静止する。「時」の死。それを感じた瞬間に、作者は（そしてわたしたちは）別の時空間へと入り込むことができる。</p>
<p>ところでその「時」の静 止ないし死という現象は、何をしなくとも自然に起こりうる類のものでは決してないだろう。それは、作者がそのような「時」のそれぞれの動きを触知し、それ らを“わたし”の身体の辺りに一度引き寄せることで、はじめて重なり合い、引き起こされる衝突――そして静止――なのだ。その瞬間、ばらばらだった事象が ひとつの位相に集まり、それらがみな、同じ世界で起きている事柄であることが明らかにされる。</p>
<p>遠くを素早く飛んでいく作者のこころ。その 浮遊は、停滞や鬱屈といった感情と紙一重のものだったのではないか。けれども夕刻の電車に揺られ、「時」の死を感じたその瞬間から、“わたし”の内的な問 題でしかなかったそうした気分は、“わたし”をとりまく外的な広がりとの関係性のなかに位置づけられる。“わたし”の内部だけでくすぶっていたさまざまな 気分が、姿を変えて、ひとつの抽象的な事柄へと転化するのだ。</p>
<p>たとえどれほど受動的であったとしても、移動はわたしたちに何らかのヒント を与えてくれる。何も考える気がせず、ただ電車に揺られているような時間であっても、わたしたちの頭は無意識的にある種の事柄を整理し、把握しようとして いる。そのある種のものとは、たとえば“憂鬱”の“憂い”の理由を探ろうとするような、漠然とした思考なのだ。</p>
<p>しかし小池昌代がそうで あったように、あるとき、ある極めてまれな条件下において、そうした思考は眼前の事象に触発されて、ある変化を起こし、わたしたちは普段は触れられない領 域へと足を踏み入れることができる。その奇跡のためならば、憂鬱な時間も決して忌むべきものではない。もし、別な時空間へ侵入できるかもしれないという可 能性を信じられなくなったら、わたしたちの生はほんとうに鬱屈したものになってしまう。</p>
<p>心臓が鼓動するたびに小休止をとるように、あるいはわたしたちが毎日眠ることで生命を維持するように、私たちにはときどき“憂鬱”が必要なのだ。それすらはばかられるような抑圧が私たちの社会にあるとするならば、それはとても悲しいことだ。</p>
<blockquote><p>(1)『現代詩手帖』1997年10月号、思潮社</p></blockquote>
</div>
<p><!--	記事フッタ開始	--></p>
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