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雑記

木の枝にかかるハンカチの目から

ところで、前回までに書いたことを振り返ってみると、本が読めないのはすべて今の環境、今の状況によるものであって、以前は小説や詩を好きなだけ読んでいた のだ…と言いたげにも見えるが、実際、全くそんなことはなかった。たしかに時間に余裕のあった学生のころは、今よりも本を読んでいたような気もするが、正確には「読もうとするが、読み進められず、それでいて目の前には、読まねばならぬ本が山のように積まれ続けていて、ますます読めないことに焦り、追いつめられていく」ことの連続であった気がする。

ところで、最近部屋を整理していたら、昔のメモ書きが出てきた。2003年の8月のメモ。

雨の日の列車は、 濡れたレールの上を、つるつる滑りながら走る。モーターが車輪に伝える加速力が、濡れたレールの上では十分に作用しないから、車輪とレールの間に力の ギャップが生じる。その力の余白が、車輪をからまわりさせ、速度とは不釣合いなほどにまでモータ音を高鳴らせていく。滑りは前後方向の振動となって、車内 に伝えられる。

そしてこれこそが、私自身の問題であることにようやく今朝、気づけた。雨の日のレールと車輪の隙間にある空転は、私の身体の中で、日々経験されていたのだ。自分の中にある「あせり」が、滑りに似たものであることにようやく気づいた。

どうやら5年前から、状況はあまり変化していないらしい。

ど うもいっぺんに、いろんなものを、一瞬で吸収しなければならない…というような、焦りに似た感情が私のなかにあるのだ。パッとわかるところまでひとっ飛びで行ってしまいたいという、無謀な発想が私を支配している。こつこつと読み進めなければならない書物、特に、ある部分の記述をよく理解せぬままに読み進めると、とたんに理解が難しくなるような種類の書物は、とっととあきらめて、読まぬようにしたほうがいいのかもしれない。

でもなぜだか、そういう書物を、文学や人文学の書物を、読まなければならないという気になるのである。その理由を、とりあえず思いついた言葉で言うならば、”知的であることへの憧れ”なのかもしれない。さらにもう少し踏み込んで、あさはかとも思われるかもしれない言い方をするならば、知的なものを書くためのバックグラウンドを身につけたいという欲求によるものなのだ、とも言えるかもしれない。しかし、この欲求には、なにか決定的な間違えがあるような気がする。

※※※

既に書かれた書物、既に描かれた絵画、既に撮られた映画…。何かをつくろうとする人が、“既にあるもの”を見るとき、程度や性質の差こそあれ、人はそれらに対し、ある種の羨望のまなざしを向けていると思う。後生の作者は、既に活躍した作者なり既につくられた作品という、越えることのできない存在に、近づきたい、あわよくばそれを飛び越したいという欲望のような意志を必ず持っているように思える。

だが、それだけで作品はつくれないような気がする。もしかしたら、自分という存在を、一度今いる位置からはずしたところへ置き、そこから世界を観察し、そして何かを書こうという意識を持たない限り、“なにかをつくりだすこと”は、根本的に不可能なのではないか。

そう考えていくと、何かを読むことによって「自分」という存在を充実させようとか、高めようといった意志が働いている限り、そもそも何かを”読む”ことはできないのではないか? という気がしてきた。

長い年月のうちに、書かれてきた言葉、紡がれてきた言葉は、もはや世界という書庫の貯蔵量を、限界まで満たしているようだ。地球上のありとあらゆる書物を、一人の人間が一生のうちに読み切ることは、とうてい不可能だろう。しかし、であるからこそ、世界という書庫の蔵書が、実は、圧倒的に不足しているような気もする。

その不足感とは、一体何なのか? その不足感こそが、なにかを書き出す力、何かを生み出す力の源泉なのではないか。

現世を生きている人々の、日常的世界からは圧倒的に離れているようでいて、もしかしたら圧倒的に近すぎるかもしれない、書かれてきた言葉の世界。そこへ触れようとするには、ノウハウやハウトゥーを手に入れるのと同じような態度、プロセスではとうてい不可能なのだ(という気が、急激にしてきた)。

まずは、自分がいない、だだっ広い世界を想像してみる。そして、その世界のなかで、かろうじてつかまっていられそうな小さな取っ手を探してみる。

まるで小枝にかかったハンカチが、おそるおそる下を覗き込むときのような好奇心で、言葉の世界へと向き合えるような、そんな場所へ行けないだろうか。

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