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雑記

「丘の上、団地の窓辺」の意味するもの

読書はどこでもできそうでいて、実はそういうものではないと、このところ強く実感する。ノウハウや情報をただ知るための行為としてであれば、電車のなかでも、ファストフード店のなかでも、甲子園球場後楽園スタジアムでも読書は可能かもしれない。

だが、小説なり詩なり、別の世界のことを描いたものを読むときは、自らをガードする壁を、すこしだけ取り払い、作品が描く世界の片隅に立ち入らなければならない。壁を開かず、ただ単に読もうとしても、ただ単に目で字面を追うという行為をしているだけになってしまう。情報誌を読むのと同じ感覚で、詩や小説を読むことはできない。

防護壁を取り払うのは、いつ、どこでもできることだろうか? どうやらそれに長けていて、ちょっとした合間 に、すぐスイッチを切り替えることができる人もいるようだが、私には無理だ。通勤途中の電車のなかで、詩を読むのはかなり厳しい。私の中にある、司令塔のようなところから、やらねばならないたくさんのタスクが書かれた、巻き物のようなリストが送られてきて、読書のために取り払おうとした壁の、わずかな開口部にしぶとくまとわりつき、せっかく空きそうになった穴を、すっかりふさいでしまうのだ。

集約的な労働環境のなかで、否応にもその存在感を増しつつある、自分の中の情報統率的な司令塔と折り合いをつけ、いかにして読書環境を手に入れるか。これが、今日からこのブログのテーマである。

ところで、込み入った都市のなかでも、防護壁を取り除けるかもしれない場所があって、それが、「丘の上、団地の窓辺。」だと思う。丘の上には、いつも風がふ いていて、少し寂しげに、開かれている。団地の窓からは広い芝生が見下ろせて、公園の中にいるような気分にさえてくれる。遠くが見渡せるというただそれだ けのことで、私たちは焦りから解放され、私の中にある情報司令塔も、その活動を停滞する。だからその場所でなら、私は、作品の世界に足を踏み込んで本を読 むことができ…はずなのだ。

今私がこのブログを打っているのは、(一応)丘の上にある、団地の窓辺である。上に書いたことが正しいならば、さぞかし読書が進みそうなものだが、それほどうまい具合に、ことは運んでいない。なかばそのために、団地に引っ越しまでしたというのに。(そのへんのノウハウ的なエピソードは、レトロダンチダイアリーにあります、とちょっと宣伝。)

どうすれば本が読める状況をつくれるか。このブログに”書く”ことの継続によって、何らかの突破口を見つけることができるのではないか?と、ひそかに期待しているのだが…。

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