恵比寿ガーデンシネマで、『ぜんぶ、フィデルのせい』という映画を見た。
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舞台は1970年のフランス。アンナという9歳の女の子が主人公の物語である。
アンナは弁護士の父親と、雑誌記者の母親のもと、伝統的な価値観を重視する気風の中で育てられていた。ところが、両親が共産主義者へと転向して以来、生活が一変。庭付きの家からアパルトマンへ引っ越し、慣れ親しんできたベビーシッターとも別れることになってしまった。
それまでしつけられてきた価値観が、急にひっくりかえってしまった状況のなかで、戸惑いながらも育っていくアンナの姿が描かれる…といった感じのストーリーである。
ちなみにタイトルにあるフィデルとは、フィデル・カストロのことである。キューバ出身のベビーシッターから、「共産主義者=フィデル・カストロ」と教え込まれたアンナが、一変した生活に嫌気がさしたときに口にしたセリフが、ままタイトルになっている(少なくとも邦訳上では)。
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ところで、この映画で気になったのは、主人公であるアンナのことよりも、むしろ彼女の両親のことである。
アンナの両親は、チリ訪問をきっかけに共産主義者に転向。チリの変革を支援するため、自宅の一室を活動場所にして、休日・夜間を問わず、積極的に運動を展開していく。しかし、そこまでして運動に力を注ぎこんでいるにも関わらず、彼らは時々、自信の無さそうな表情をする。
例えば、こんなシーンがある。“団結と人マネを混同してはいけない”とアンナを諭した父親は、逆にアンナから次のように聞き返される。「じゃあ父さんは、団結と人マネを混同していないの?」――問いかけられた父親は、なんだか困ったような表情をして、話をそらす。
もしかしたら父親は、心のどこかで、次のように感じていたのではないだろうか。
「社会的不平等は是正すべきだけれど、運動を積極的に展開すればするほど、家族と過ごす安息の日曜日がなくなるし、ましてや過激な行動をとりすぎて、社会的地位を完全に喪失するのも気にかかる。変革は成功して欲しいけれど、とはいえいつかは終わる日が来て欲しい。」
いささか拡大解釈が過ぎるかもしれない。とはいえいずれにしろ、この映画では、社会的地位を持つインテリジェンスな人々が、変革に参加するときの不安定な心理の一端が、有る程度的確に描かれていると思われる。賛同と戸惑いの混ぜ合わさったような、微妙な心境が。
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変革運動への参加と、家族関係の維持。この2つを同時に成立させようとする父親のプロジェクトは、“彼自身のための運動”であると同時に、“社会的なもののための運動”でもあった。そしてこの両義性は、決して否定されるべきものではないと思う。
この両義性、というよりもこの両立性を認められなければ、“社会的なもの”に関する思考や行動は、一部の人だけに許された、閉塞的で閉ざされた、特殊な事柄になってしまう。そしてもし、それを手放しに許してしまえば、私たちは、よりいっそう狭くて窮屈なところへ押し込められてしまうだろう。
これ以上狭いところへと押し込められないために、すべきこと。それは、少なくとも、ぜんぶフィデルのせいにすることでも、ぜんぶ誰かのせいにすることでもない。


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