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美術・写真

『私のいる場所』-新進作家展Vol.4 ゼロ年代の写真論

東京都写真美術館で開かれている、『私のいる場所』-新進作家展vol.4 ゼロ年代の写真論(2006.03.11-2006.04.23)で気になった作品について、書き留めておこうと思います。

〔アントワーン・ダガタ/Antoine d’Agata〕
裏 ぶれた街のしわくちゃなシーツがかかるベッドの上に寝転がる、幾人もの人々の熱情と冷情を直視させられる、肉感的なポートレート。ちょっとした振動で、外 壁がのきなみ剥がれ落ちてしまいそうな老朽化した建物の外見。夜を全力で失踪しながら撮り回ったと思わせる失踪感溢れる写真が、コの字型の展示壁の3面を 囲うように、隙間無く並べられていた。それぞれの写真は黒淵のイーゼルで端正に囲われていて、ひとつひとつが窓のように見えた。あらゆる場所へつながる窓 が設けられた、その秘密の部屋は、街のあらゆる場面を覗き見ることができる、秘密のコックピットのようだ。(しかしそのコックピットは、監視や行動操作と いった行為からは最も遠いところに置かれ、それゆえに、裏街に最も近いところにあるのだろう。)
今回の写真展のフロア分けからすると、この作品 は、「私の中の私」というカテゴリーに属することになる。しかしこの作品は、作者自身の姿を想起させるようなものではない。もし、そこに写されたポート レートの何人かが、あるいはそのほとんどすべてが作者自身であったとしても、それはすでに内的な存在として閉じている作者ではないのだ。どうしてこの作品 が、ひとつ下の展示フロア「社会のなかの私」にないのだろうかと、疑問に思う。

Antoine D’AGATA
http://www.documentsdartistes.org/artistes/dagata/repro.html

アントワン・ダガタ
http://www.magnumphotos.co.jp/ws_photographer/aga/index.html

Soleil de nuithttp://tadafumi.jugem.jp/)の(2006.03.30の書き込みにある、「ペドロ・コスタの「ヴァンダの部屋」を思い出した。」という文章より、気になって映画「ヴァンダの部屋」(http://www.cinematrix.jp/vanda/)の予告編を見てみる。予告編はどこかの映画館で見た記憶があるが、本編は見たことがない。そして、とても見たくなった。

幻 日 日 記 – NO FILM,NO LIFE
http://navy.ap.teacup.com/genjitsunikki/22.html

〔アンニ・エミリア・レッパラ/Anni Emilia Leppala〕
日 常的な社会生活ではなく、作者自らの内面的な精神世界が描き出されている。彼女の作品は、どんなものをどのように写すかという、被写体やフレーミングの選 定といった領域を超え、撮るべきものを作家自らが想像し、創り出してしまっている。その創作のプロセスは、絵画を描くことや、彫像を創る行為に、限りなく 近いようである。
「私」の存在なり立場なり形なり姿といったものを、フィルム上に感光させようとする行為のなかで、ここまで想像的かつ内奥的な「私」を映し出そうとした作品は、(私が不勉強で知らないだけかも知れないが)今まであまり見たことがない。

〔ジャン=ポール・ブロヘス/Jean-Paul Brohez〕
草木が繁茂しすぎることのないヨーロッパ的な痩せた土地と、ペンキが少しはげ落ちた素朴な木製家具。素朴で色調の淡い写真が、十点ほど並べられていた。作品脇に掲げられた作者自身の言葉によれば、彼はベルギーの片田舎に住み、日常生活を撮っている写真家ということになる。
ところで彼は、自分の撮った写真に、なにか特定の意味を付与しようとする意図はないとも記していた。そのせいだろうか、彼の作品を見ても、私には、彼の日常が撮られているという事実以外の何かを感じることはできなかった。

日 常的に目にする光景、とりわけ風景や、風景に混じるように存在している人々の光景、あるいは、普段見るのと同じような画角、角度、方向から見た日常の生活 道具や部屋を被写体とした写真は、強いインパクトや印象を私たちに与えてはくれない(気がする)。よくよく注意しなければ、さっと流してしまいたくなるこ とさえある。一方、人間の高揚や失望の姿が生々しく写されていたり、作者の抽象的な精神世界が描かれている作品や、ある物の一部分のみをクローズアップ し、その物がもつ部分的な形状の神秘が顕にされるような写真は、前者に対して、瞬時に受け取ることができる情感、印象が強い気がする。

で は、彼の作品を、完全にそのような考えから判断して良いのだろうか? 彼の写真は日常生活を写している事実を感じられる以外の何者でもないのだろうか?  そう考えている私にヒントを与えてくれたのは、意外にも、美術館のビラにさりげなく書かれていた、数行の告知文だった。
「決してきれいごとではすまされないスローライフをリアルに描き出す…」
この一文を読んでようやく、私はこの写真を、私たちの文脈の中でとらえられる気がしてきた。

実 は、彼の作品には何となく既視感があった。それは、最近よく出版されている、スローライフを提唱する雑誌やムックでたびたび見かける、淡い色調の写真との 類似感によるものだった。彼の写真は、主に色調や構図、被写体の雰囲気といった面では、ほぼすべてそうした雑誌で見たことがある写真の、イメージの範疇に おさまってしまうものだったのだ。けれども注意深く見ていけば、両者の間に大きな違いがあることがわかる。ジャン=ポール・ブロヘスの写真には、馬の尻、 小瓶の内側にへばりついた虫、摘みたてのキノコを並べ、乾燥させている場面などが写されている。日本のスローライフ雑誌が決して掲載しない、自然のぐじゅ ぐじゅした部分を、作者は自然な日常生活の光景として写している。

直接見たことがない場所の風景、物の姿であっても、色調や被写体が類似 していると、私たちは脳の記憶にある、「似たもの」と結びつけてそれを捉えようとしてしまう。しかし、何かに似ていると思うときこそ、それが一体何と類似 しているのかに注意を払わなければならないだろう。そのように注意することで、「似ている」ものと、目の前のものとの違いを、より本質性に近い部分で把握 できることがあるのだ。

actuphoto.comのJean-Paul Brohez に関するページ(仏文)
http://www.actuphoto.com/photographie_2186

〔池田晶紀〕
写 真館を営む家に生まれた作者が、いわゆる普通の記念写真とは違う形で、「記念写真」を撮ることはできないだろうかと考えながら撮影されたという写真たち。 ごく普通の記念写真を撮るのが写真館の営業日ならば、そうでない記念写真を撮るのは定休日になるという考えから、作品は「休日の写真館」と名付けられてい る。
ふたを閉めたグランドピアノの上に、戸惑った表情を装って座っている女の子の写真が、印象に残っている。彼女は普段、決してピアノの上になん か乗らないだろうし、たとえ乗りたいと思っていても、乗れないだろう。やってはいけないことだと、教育されているのだろうから。けれども記念写真の撮影と いう特別なタイミングでだけ、そんなご法度は許されてしまう。
幼いころの記念写真というと、それを撮られた記憶はほとんど残っていない。アルバム の中から見つかった記念写真を見ても、昔本当にそんな写真を撮ってもらったのか、記憶があいまいな場合も多い。けれどもピアノの上に乗ったその女の子姿 は、記念写真として残されるばかりでなく、彼女の記憶の中にも鮮明に残るだろう。

Contemporary Art Factory(現代美術製作所で開かれた写真展の様子)
http://www.ask.ne.jp/~factory/exhibition/artists/ikeda/space_ikeda.htm

〔みうらじゅん〕
街 角の変なものを写した写真を、大きなスクリーンに投影し、ホールに集まった観客の前でトークショーを繰り広げていくイベント「THE SLIDE SHOW」のビデオが流れていた。みうらじゅんが集めてきた、変な看板や変なビラの写真をネタに、いとうせいこうが突っ込みを入れるという構成なのだが、 本当に変な看板とか、本当に変なビラが登場して、静かな展示室のなかで、笑いをこらえるのが必死だった。一般的にイメージする写真展の作品からは、少し毛 色の違うものであったが、展示企画の趣旨にうまく包含されており、この写真展の構成の上手さを感じた。

はてな – ザ・スライドショーとは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B6%A1%A6%A5%B9%A5%E9%A5%A4%A5%C9%A5%B7%A5%E7%A1%BCWOWOW NEXT ENTERTAINMENT GENETICS(有料で見られるサイト)
http://www.hitpops.jp/wowow/variety/slideshow/index.html

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