団地考察(1)
造成直後の多摩ニュータウンを知るための施設
ニュータウンを描いた小説のひとつに、重松清『トワイライト』がある。この物語の舞台は「たまがわニュータウン」の「長山団地」だが、これが「多摩ニュータウン」の「永山団地」をモチーフにしたものであることは、容易にわかる。さらに、主人公の少年が「長山団地」に引っ越してきたときは、交通やインフラの整備が大幅に遅れており、入居者たちは“開拓民”と呼ばれていた…というくだりがあるのだが、このエピソードもまた現実の「永山団地」とそっくりである。
1960年代後半から造成が行われた多摩ニュータウンの中でも、「永山団地」はもっとも早く開発された地区のひとつで、開設当初は陸の孤島と言われていたという。そんな造成当初の「永山団地」の様子を知ることができる施設が、多摩ニュータウンの中枢、多摩センターにある。
多摩市の複合文化施設「パルテノン多摩」内の「歴史ミュージアム」がそれで、永山団地(分譲棟)のパンフレットや、抽選結果の通知はがき、造成当初の写真などが何点か展示されているほか、多摩ニュータウンのことを取り上げた新聞記事のスクラップもある。
団地の窓に、花や動物のシールが貼ってある理由
収集された新聞記事には、造成直後の団地の住みづらさに関する話題が多々取り上げられている。買い物が不便、道路の大渋滞で通勤が非常に不便、押入が狭い、畳にダニが湧いた、電話の開通が間に合わないといった、居住上の不便に関するものから、教員の下宿先が見つけられない、消防署に梯子車が配属されないので、いざというときに備えて、署員は4階建ての女子寮などによじのぼって訓練しているといったものまで多種多彩にある。(訓練のためとはいえ、女子寮によじ登るのはどうなのだろうという気もするが…)
団地内に迷子が続出しているといった記事もあった。同じ形の建物ばかり並んでいるため、自宅に戻れなくなった子どもたちが続出している…といったものだ。迷子を減らすため、子どもたちに識別番号入りの名札をつけたり、住棟の妻部に花の絵を描いたり、窓ガラスにシールを貼る家が出てきたといったといった記述もある。昔の団地を歩いていると、窓ガラスにカラフルなシール(花、動物など)が貼られている光景を何度か目にしたことがあるが、これには迷子対策という意味合いもあったらしい。
一方、プラス面を取り上げた記事には、“引っ越してきてから子どもたちがとっても元気になった”といった記述が見られた。空気の良い郊外で、子どもたちが息を吹き返した様子が伺える。
団地と子ども
おそらく団地は、良好な住環境であったと同時に、良好な遊び場でもあったのだろう。住棟のまわりには芝生や公園が広がり、団地を一歩出れば、林や川、造成地帯があるのだから、遊び場には事欠かない。近年の建築物(あるいは開発区域)とは違い、子どもたちの遊びに欠かせない、“アナーキーなスペース”も存在していた。入居世帯の家族構成は均質で、同年代の子どもたちが多く、遊ぶ仲間もふんだんにいる。
団地に暮らす小学生が
主人公の漫画『団地ともお』や、団地に暮らす子どもたちのエピソードを多数収録した『団地っ子の同窓会』、さらには『滝山コミューン1974』に至るまで、団地生活のエピソードが記された書籍がいくつか発刊されているが、これらの作者が皆、子ども時代に団地を体験しているという共通点に、注目してみる必要があるだろう。かつて子ども時代に団地を体験した人々が、どうしても忘れられない場所として、いま団地を取り上げているという事実をどう考えればよいのだろうか。(「団地百景」や「公団ウォーカー」といった代表的な団地関係Webの管理人の方々もまた、子ども時代に団地を体験しているようである。)
これは単純に、日本各地に刻を同じくして建設された“団地”という空間で、同質的な体験をした子どもたちが数的に多かった…といった理由だけで説明できることではない。団地に住むということが、少なくとも何らかの形で、彼らにとってある種の“特別な経験”だったということなのではないだろうか?
もしそうであったとするならば、団地生活の一体何が”特別”だったのか?(つづく)